ストッキングの歴史

所蔵品でたどるストッキングの変遷

明治16年、鹿鳴館が建造される。当時の絵画や写真を見ると、女性はすでにストッキングを着用していたように思われるが、残念ながら具体的な資料は残っていない。そこで、このコーナーでは昭和4年頃に作られたフルファッションストッキングから、その歴史をたどっていくことにする。

1.シルクのフルファッションストッキング

製作年:昭和4年(1929年)
編機名:フルファッション機(ドイツのフィルシャー社製45ゲージ)
糸使い:シルク75デニール(15デニール5本の引きそろえ)
このストッキングは脚を開いた形で編成し、あとで両端を縫い合わせて成形する。縫製線が後ろにできるのが特徴で、これがあることで脚を細く見せるという視覚的な効果もあったようだ。
また、編み目を増減させて脚の形に作り上げるため、脚を自然に包み込み、着用感に優れ高級品とされた。

2.ナイロンのフルファッションストッキング

製作年:昭和27年(1952年)
編機名:フルファッション機(51ゲージ)
糸使い:ナイロン15デニール
今日でも使われているナイロン糸使用のフルファッションストッキング。1935年、米国の化学会社デュポンが、石炭、水、空気から世界で最初の合成繊維「ナイロン」を開発。当初は歯ブラシなどを商品化していたが、1940年5月15日、後にN-DAYと記録されるこの日、全米でナイロンストッキングが発売されセンセーションを巻き起こした。
しかし、1941年には日本との戦争に突入したため、このナイロンストッキングは贅沢品とされ、生産は半減する。ナイロンが軍事目的、パラシュート素材として使われたためであった。
1945年、戦争の終結とともに、この女性の夢ともいえる素肌に近く、美しく、しかも絹に比べて格段に強いストッキングが絹の靴下に取って代わることとなる。
日本では戦後、絹のストッキングの生産も再開されたが、1952年、ナイガイがナイロンを使用したフルファッションストッキングの生産を開始する。
当時、ナイロンストッキングは輸入されてもいたが、1足1,000円と庶民にとっては高嶺の花だった。しかも、うたい文句では細く強いはずが、よく伝線してしまう。このため、街には多くの伝線直し屋が生まれた。料金は1本につき5円だった。
また、トリコット編地を縫製して作ったナイロンストッキングも商品化された。フルファッションに比べて、生地はやや厚いが伝線しないという特徴があり、さらに丈夫で安いこともあって、全盛期にはフルファッションの何倍も出回った。しかし、シームレスストッキングの台頭が始まった1960年頃から少なくなり、1963年にはフルファッションとともに市場から消えていく。

3.ナイロンのシームレスストッキング

製作年:昭和36年(1961年)
編機名:シームレス機(針数400本)
糸使い:ナイロン15~20デニール
ハイゲージの丸編みK式機で編成するため、フルファッションの縫製線がなくなることから、シームレスと呼ばれた。このストッキングは透明感があり、シームを気にせずに着用できる機能性から、一気に多くの人に愛用されるようになる。
日本で本格的に販売されるようになったのは、昭和36年のことである。公務員の初任給が14,200円であったこの当時、シームレスストッキングは500円と大変高価であった。 
日本でもナイロンが生産され始めたことが、ナイロンストッキングの需要拡大に大きな役割を果たしている。1951年、東洋レーヨン(現:東レ)が開始し、翌年にはストッキングやソックスなどの生産が始まる。こうして、ナイロンが靴下の素材の王座を占めるようになった。
また、1955年に永田精機が国産のシームレス編機を開発し、ストッキングの大量生産体制を支えたことも見逃せない。そして1963年、フルファッションストッキングを抜いて、シームレスストッキングが全盛時代を迎える。
しかし、1964年にアンドレ・クレージュがミニスカートを発表してからは、ストッキングの需要が減少し始め、ミニスカート用のパンティーストッキングにその座をゆずることとなる。
所蔵品紹介
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